Part two 日本
1月5日
ずっと以前のことだが、初めて東京に来た時、僕は税関を通ったら直ぐに急いで走って屋外に出た。半日以上タバコを吸っていなかったからだ。 タバコに火をつけると(抑制が一気に解かれ)、頭がクラクラしてバッタリと倒れてしまいそうになった。 こんな状態を人に話すと不快に思われるかもしれないが、スモーカーにとってこれ程良いものはない。
朝の1本目は普段の10倍はいいものだ。これは、僕が旅行に行くときのご褒美みたいなもので、これがなければ、自分自身どうすればよいのか分からないぐらいだった。
でも今回のフライトの後は税関を通過したら、僕はスーツケースを地面に降ろしてヒューに訊いた。
「次はどこ?」
そして特に驚くことも無くヒューは電車に乗るために駅に向かう必要があると教えてくれた。 以上が昨日の朝の出来事だ。もう何ヶ月も前のような気がする。 最後のタバコから38時間経過していた。ハッキリ言って、その間全く苦しみが無かったといったら嘘になる。でも、ゾッとするような経過になるだろうと思い描いていたのに、そうはならなかった。 僕は自身が完全に崩壊してしまうだろうと思い込んでいたのだ。 でも、可笑しなことにヒューの方が僕より気分屋になり、怒りっぽくなった。 僕に変化が無かったとしたら、それは飛行機に搭乗後3時間経った頃に付けた禁煙パッチのお陰だろう。
もともとはパッチのお世話になろうなんて思っていなかったが、フライトの2,3日前に偶然通りすがりの薬局で禁煙パッチを見かけ、念のためにと80箱購入した。 過去に一度も禁煙パッチを使ってなかったのは、僕にとって喫煙という行為が「煙を出す遊び」だったからだ。パッチは「口に何か咥えて火をつけたい」という衝動を満足させるものではない。 でも不思議なことに、パッチは僕を落ち着かせた。僕は薬局でニコチン飴も購入した。まだ箱を開けていないが、この飴もいつでも舐めることが出来る状態だったから、落ち着くことが出来たのだと思う。
そして、自分が持ち込んだもの以上に東京は全てが目新しく、あまりに異国なためにタバコを忘れることが出来た。これが禁煙の大きな手助けになったと思う。電動式トイレなどもその一例である。
便器の横にコントロールパネルが付いていて、沢山のボタンがついている。ボタンにはそれぞれ日本語のラベルと簡単なイラストが付いている。 小文字のWはおしりのことのようだ。大文字Yはヴァギナのように見える。WとYがあれば、何時間でもこの便器で遊んでいられるだろうが、男でも他に沢山出来ることがある。
「あそこを洗浄してもよろしいでしょうか?」とトイレが静かに訊いて来る。
「洗浄ですが、定位置シャワーがよろしいですか?ムーブシャワーがよろしいですか?」
「水温は?」 「乾燥サービスもご一緒にいかがでしょうか?」 と、こんな感じで延々と続く。
アパートの中も同様、この電動式トイレについてビルの管理人から説明を受けた。 僕は「スーパーさん」と管理人のことを呼んでいた。スーパーさんは僕より少し背が低くて、英語は「ハロー」しか話さない。 日本語CDで2ヶ月勉強した僕は、自信を持って自己紹介をしてみた。それからビルの26階までエレベーターで上がった時、お天気の話をした。
僕:イイ オテンキ デスネ?
スーパーさん: そうですね!
僕達の部屋に入ると、スーパーさんはローファーを脱いだ。ヒューも同じように靴を脱ぐと、靴下を履いた足で僕を蹴って囁いた。
「靴、履いてちゃダメだよ」
「でもここは僕らのアパートだぜ」と僕は囁きかえした。
「関係ないよ」
玄関入り口のスペースが途中からカーペット敷きになっていた。そこに低いメタル製の木の形をしたスリッパラックがあり、スリッパが掛けてあった。スリッパはどれも新品で男性用と女性用両方あった。全部のスリッパの底にはまだ値札が付いたままだった。 スーパーさんは一番小さなスリッパを履いて、これから3ヶ月間僕達の家となるアパートのツアーガイドをしてくれた。
「このアパートは大きくて良い」と日本語でどう云えばいいか解っていたが、 「新品のような香りがする」とか 「中級レジデンスホテルを思わせるようだ」と日本語でどう云えばいいか知らなかった。
リビングルームには額縁入りの絵が飾ってあった。この絵はペンキ屋のカラーサンプルみたいだった。 聞いた事のない名称の色で白地にマットされている。絵は空っぽのコンソールの上に飾ってあり、その向かいには空っぽの本棚があった。ガラスドアのキャビネットもあったが、これも空っぽで、側にソファが二つ、テーブルと椅子、そしてなんだか複雑な外観のTVがあった。 アパート内がそんなに特筆すべきものがない一方で、部屋の一歩外に出ると、そこはワンダーランドだった。 リビングルームには小さなバルコニーがあって、そこから東京タワーが見えた。 ベッドルームにもバルコニーがあり、運河が連なり交差している様子が見えた。小さなボートも見える。そして、鉄道と線路が見え、その向こうには汚水処理場があった。僕はスーパーさんに、 「グッド、グッド、この場所はグッド」と伝えた。 スーパーさんが微笑むと僕達も微笑んだ。スーパーさんが頭を下げて礼をすると、僕達も頭を下げて礼をした。 スーパーさんが帰ったら、僕達はスーパーさんのスリッパをメタル製の木に引っ掛けておいた。
1月6日
僕達のアパートのある高層ビルは混雑しているが快適な通りに面して建っていた。同じ通りに似たような高層ビルが立ち並び、殆どのビルが商業施設や住居ビルだった。 アパート側の通りに郵便局があって、反対側にファミリーレストランがあった。玄関ドアの前にある街路樹は賑やかにライトで彩られていた。道をはさんで向かいにはローソンというコンビニエンスストアがあった。
日本語では外国語を表記する際カタカナを使うが、このローソンに関しては、7ELEVENのように英語のままだった。 ローソンでは、僕の銘柄のタバコを売っていた。しかしもっと手っ取り早くタバコを入手するには、ピーコックに行けば良かった。ピーコックは手頃な規模のスーパーマーケットで、アパートビルの地下にあった。このスーパーの看板も英語表記だった。何故だかはわからない。僕やヒューのような西洋人を相手に商売をするなら、まず西洋風にする必要があるためか……?でも僕達以外に外国人は誰も見かけなかった。これはスーパーの中だけでなく、外の通りでもそうだった。
昨日ヒューと2人でピーコックに行って、ほとほと困ってしまった。ミルクを探した時は、牛乳パックに牛のシルエットが印刷されていたから判ったが、醤油を見分けるのにはどうすれば良いのだろう?棚にある瓶はすべて醤油にしか見えない。砂糖と塩はどうやって見分ける?レギュラーコーヒーとデカフェは?
パリでは、レジ係は座っている事が多い。カゴの中身をレジに通して、合計金額を言って客が現金でおつりがないように支払をするのが当然の事と思っている。 向こうの言い分には、なんでもユーロが不足しているからだということらしい。
「EU全体で、ユーロが少ないので」
すかさず僕は、 「本当に?」と言い返すようにしている。なぜならドイツにはユーロが有り余る程あるからだ。スペインやオランダ、イタリアでは、お釣りなしで払うように一度も言われたことはない。だから僕は本当の問題はパリのレジ係にあると思う。すなわち、奴らは怠け者だ。ここ東京では、レジ係はよく働くだけでなく、暴力的と言ってもいい程に明るい。ピーコックでは、釣銭は水道水のようにレジから流れ出てくる。そしてレジ係の女性はお辞儀をするが、これは通りで人とすれ違う時にそっと頭を下げるようなものではない。両手をお腹に重ねて、腰からしっかりと前に曲げてお辞儀をする。
そして、お礼の言葉を言う。それは、
「私共、この店の者は、お客様を神様のように崇めたてまつっております」
と言っているように聞こえる。
1月7日
パリで知り合った日本人女性が昨日僕達のアパートにやって来た。電子レンジ、電気ポット、風呂装置などのアパートの設備について説明してもらった。アパートの装置はたびたび電気ボタンが点滅したり、ピーっと音がしたり、夜中に急に声を出して何か知らせてくることがあった。炊飯器に一体どうしてこんなにいろいろなボタンが付いているのか?とレイコに訊いてみた。これらはタイマー装置だということだ。設定すると希望の時間にお米を炊くことが出来るという。電気湯沸かしポットも同様で、お風呂も本当に馬鹿馬鹿しい機能がついていて、ただ夜中に意味もなく僕達を叩き起こすアナウンスを発するもの だった。
1月8日
昨夜僕は禁煙パッチを剥がしてみた。剥がした跡の灰色に変色した皮膚を見て気持ちが悪くなった。まるで車のバンパーステッカーをずっと貼りっぱなしにしていたみたいだ。新しいパッチを貼る代りにパッチ無しで生活してみて、どうなるか様子を見てみようと思った。300ドルもかけて購入したニコチン飴もあることだし。かといって、ニコチン飴の箱をまだ開けてもいないし、舐めるつもりもないけど。
僕がタバコの代替品として使用して いるのは、インデックスカードだ。カードを一枚くるくると巻いて、細い筒にする。それを咥えて椅子に座って書き仕事をする。ゆっくりカードを噛んで、ペースト状になったら呑み込む。今のところ一日インデックスカード6本がノルマだ。僕はこの無名ブランドの巻きモノにライターで火をつけようか迷っている。
1月9日
西武デパート食品売り場にて。 丸鶏が一羽44ドルの値段で売られていた。この金額は高すぎると思ったが、別のデパートで苺14粒入り1パックが42ドルで売られていた。確かに大粒の苺だけど。42ドルもするなんて。その金額で鶏一羽が買えるのだから。
1月10日
出掛けたついでに語学学校に立ち寄った。日本語クラスについて尋ねると、受付の女性は僕にクラス決めの為にテストを受けることを勧めた。僕が受付に居る間、ずっと随時テストの受験が可能だと言い続けている。
「これは良い機会ですよ!!」とこんな感じだ。
僕は長居するつもりはなかったのだが、この女性が「テストはすごく楽しくて簡単だ」と説明するのですっかりその気になり。
「テストを?日本語で?ちょうどそれを考えていたところです!」 と調子よく答えてしまった。
しばらくすると、受付の真向かいにある小さな部屋に座らされた。
問題:ウエノ コウエンデスカ?
答え:アソコデス!
僕はこの日の午前中はすこぶる気分が良かった。アパートでも、地下鉄でも、郵便局の列に並んでいる時も、まるでそれまで一度もタバコに手をつけたことのない人生を歩んできたかのように。禁煙に対して全く無関心状態だったのだ。 でも今は違う。目の前の問題20問に答えなければならない。このプレッシャーに片方の目を差し出してでも、タバコを吸いたいと思った。ただタバコを口に咥えてゆっくり噛みしめるだけで気分が落ち着くと思った。しかし、たとえそうしたとしても、「標準的な渇望」にしか効き目はなかっただろう。このテストには、何かに「噛みつく」必要性を強く感じた。そう、誰かの舌を噛みちぎるぐらいに。
あの暑苦しい小部屋に座っている間、僕は女友達ジャネットの忠告を聞いておけばよかったとつくづく思った。 ジャネットはベビーフードの空瓶に2センチ位の高さまで水を入れて、そこにタバコの吸い殻を5,6本入れてカバンに入れて持ち歩いていた。ジャネットはタバコを吸いたくなると、その瓶を取り出し、蓋を開けて中の匂いを吸いこむようにしたらしい。この一服はどんなヘビースモーカーも絶対に気持ちが悪くなるものだった。人間弱気になった時は、そもそも「何故止めようと思ったのか」を忘れやすいものだ。
だから僕もあのホテルのリモートコントローラーを持っておくべきだった。付着していた精液がたとえ乾燥して剥がれてしまっていても。あのコントローラーは、僕に「何故止めたいと思ったか」を思い出させてくれるシロモノになっていただろう。
息を吸って、息を吐いて。数分間深呼吸をしてみたら気分が落ち着いてきた。有難いことに、アメリカで聴いていた日本語CDのおかげで、僕はたくさんの設問に答えることが出来た。少なくとも、穴埋め式問題は大丈夫だ。次は選択問題。僕は眼をつぶって、当てずっぽうに答えた。お手上げだったのは記述式問題だ。
エッセイ「僕の国の紹介」
「わたしはアメリカじんです。しかし、いまわたしは しばらくちがうところにすんでいます。あめいかはおおきいです。そしてあまりたかくありません」と書いた。
それから僕は両手を組んで座っていた。インストラクターが現れて、僕をロビーに連れて行った。テストの採点には1分もかからなかった。受付の女性は僕にビギナークラスに入るように案内してくれた。僕は「それは良かった」という風に振る舞った。まるでビギナー準備コースがその下のクラスにあって、そこに入るには僕の成績が良すぎたとでもいうようなポーズをとってみた。
1月12日
一般にストレスと呼ばれるものと喫煙との関連について考えると、世界中のどこの語学学校に通うのも良い考えだとは思わないと僕は昨日の朝考えた。 それから第一日目のクラスに向かった。
授業は朝9時から12時45分までだった。 講師は2人いて、両方女性で非常に親切だ。
イシカワ先生と一緒に「こんにちは。よろしくおねがいします。わたしは、 リー・チュンハです。 キースです。 マシューです」と始める。
10人いる生徒のうち、韓国人4名、フランス人3名、アメリカ人2名、インドネシア人1名だった。 幸運にも僕は、クラスで一番の年寄りでなかった。クロードが一番年上だった。彼は歴史学の教授でフランスのディジョン出身だ。
悲しい。本当に教室という場所に来ると、ものの5分と経たない内に、全ての記憶が蘇る。
へつらい
嫉妬
一番になりたいという欲望
そして、決してそうならない現実
『独り言禁止』と僕は自分のノートに書き込んだ。 まだ一日目だ。周りの皆を疲れさせることはない
僕は、「サン・リー」が好きだ。 サン・リーは17歳の韓国人の女の子。
いつも前から2列目に座っている。 実を言うと「好き」という言葉はちょっと違う。それ以上の感情だ。
僕には「サン・リー」が必要だ。
僕には、自分よりデキの悪いクラスメートが必要なのだ。
僕が見下すことのできる存在。
僕のクラスは入門コースなので、クラスの皆が「ひらがな」を解かっていると思ってもみなかった。ひらがなを1文字、2文字ぐらい知っているのは、わかるとしても、「ひらがな50音」全部を解かっているなんて。 僕を除いて全員理解していることが判明した時。 僕以外のみんなと、このマヌケな「サン・リー」が解かっているとわかった時、 僕は心底打ちひしがれてしまい暫く声を発することが出来なかった。
フランス人に「どこでこんなに覚えたの?」と訊いたら、 「実を言うとね」という口調で、「知らず知らずのうちに身についちゃったのさ」と言った。
「インフルエンザみたいなものなら、知らない間になんて言えるけど。これはちがうでしょ?」と僕は彼に言った。そしてこう続けた。 「スペイン語の単語を歌にしたのとかさ、そういうのならわかるよ。だも46個もあるアルファベットを自然に覚えるなんて、ちゃんと机に向かって頭に詰め込まないと絶対無理だよ」
「身についた」というのは、確かに。僕は、ひらがなを2文字マスターしている。それだけだ。たったの2つ。
この2文字分、あの可愛いマヌケな「サン・リー」をリードしているということだ。
でもこれって、大したことない差だよなあ。
1月13日
学校が続く中、新しい先生にたくさん出会った。昨日は2人とも今までとは違う先生だった。 アユバ先生とコンドウ先生。2人とも忍耐強く熱心だ。 でもこの2人でも木曜日担当のミキ先生の情熱には敵わないだろう。 ある時、ミキ先生は僕に数字の「6」の言い方を尋ねた。僕は戸惑ってしまい、答えるのに時間がかかった。 その時ミキ先生は、口の端を使って、そっと「ろく」と囁いた。
「えっ?もう一度」
ミキ先生はもう一度囁いた。僕が先生の後に上手く繰り返すのに成功したら、先生は本当に純粋に拍手をして喜び、本当に本当によくできましたと褒めてくれた。
1月16日
早朝3時前。ベッドが揺れ動いているのに気付いて眼が覚めた。 「地震だ」と叫んだ。 ヒューは僕の声で起き上がった。僕達は一緒にゆらゆら揺れるカーテンを唖然として見詰めていた。 立ち上がる時間もなく、走って逃げることも出来なかった。 でも僕はその時、
――タバコを止めて2週間で死んでしまうなんて、なんて不公平なんだろう
と思っていたのを覚えている。
1月17日
昨日 学校の休み時間にクリストファさんとラウンジで自動販売機のことを話していた。ラウンジの自販機だけでなく、街中にある販売機のことだ。
「信じられる?」とクリストファさんが僕に訊いた。 「地下鉄の駅や路上にみんなちゃんと立っているでしょ?全然荒らされることもなくさ」
「ああ、わかるわかる」と僕は言った。 そこに、インドネシア人のクラスメートがやって来た。僕達が話しているのを聞いて、彼はそれがそんなに凄いことなのか訊いてきた。
「ニューヨークなら、こんな自販機はゴミのようになってしまうさ」
インドネシア人は、目を丸くして驚いた。
「デイヴィッドが言おうとしているのは、“壊されてしまう”ってことさ」とクリストファが言った。
「ガラスが割られて、落書きだらけになるってこと」
インドネシア人の生徒は何故そんなことをするのかと訊いてきたが、僕達はそれを何と言って説明すればいいものか、非常に困った。
「何も他にやることがないとか……」と僕は言ってみた。
「でも、新聞読むとか、他にもやることはあるじゃない?」とインドネシア人が言った。
「ああ、でもそれで何かを引き裂きたいという基本的な欲望を満たすことはできないさ」と、僕は説明した。
最終的に彼は「OK、OK、わかったよ」と言った。 その言い方は、僕が話題のトピックを理解するより先に進んだ方がいいと思った時に言う時とまったく同じ言い方だった。そして僕達は教室に戻って行った。 学校が終わった後も、僕は休み時間中の会話をずっと反芻していた。僕は駅と駅を結ぶ連絡通路を急いでいた。動く歩道の横に窓が連なり、一定区間ごとに鉢植えの花が置かれていた。誰も花びらを引き抜かないし、植木鉢の中にゴミを放り込んだりしない。 人々のお行儀が良いと、生活は何と違うものになるのだろう。窓に格子はなく、壁に落書き防止塗装が塗られているわけでない。そして、自動販売機が道端に立っている。まるで外で一列にバスを待って並ぶ人々のように。
1月18日
僕が持っている禁煙本には、食べるという行為は喫煙の代償行為とはならないと書いてある。この本の作者は30回ぐらいこれを繰り返し本に書いていて、まるで催眠術のようだ。
「食べることは、タバコのかわりにならない。食べることは、タバコのかわりにならない」
僕は冷蔵庫の中を物色しながら繰り返し呟いていた。 昨日ヒューが持ち帰った見たこともないシロモノを手にとって、僕は思い切り気持ちが悪くなってしまった。 木の棒みたいなものでピクルス状になっている、少なくともそれはピクルスに見えた。 全部が茶色で、濁った茶色のシロップに漬かっている。 そして、この紙に包んである魚。この魚は死んでいる筈なのだが、僕には一時的に気を失っているだけなのではないかという気がしてならず。
僕の新たな発見は、「コージーコーナー」だ。 田町駅の横にある、西洋スタイルのコーヒーショップ。先週の土曜日にコージーコーナーのガラスケース越しに僕が指さしたケーキを店員の女性は、「ショトケキ」と呼んでいた。僕は英語のshortcake(発 音:ショートケイク)を日本語でこういう風に呼ぶことに気が付いた。
1月19日
昨日、聞き取りのテストがあった。僕は泣きたくなった。それは僕がクラスで一番成績の悪い生徒であるだけでなく、それは僕が明らかにクラスで一番出来が悪い生徒であるためで。以前のアホで間抜けなサン・リーよりずっと下の成績なのだ。更に耐えられなくなったのが、先生方の優しさだった。そして、その優しさも今や「憐れみ」としか感じられずにいた。
「テキストを開いたままでいいですよ」とミキ先生は僕に言うが、それでも僕は答えが判らなかった。
キョウシ(教師) と書かなければならないのに、 キュウチ と書いてしまった。
トウキョウ のかわりに ドキ と書いた。「トキドキ」のように。 トキドキは時々という意味だ。
「いいですよ」とミキ先生は言った。「いつかきっと聞き取れるようになります」
聞き取りの後は、本を開いて朗読をした。マエ・リーは楽々と読み、その後にインドリとクロードが続いた。それから僕の順番がきた。
「……ノ、ホン……ハ ダレ ノ ホン……デ…………」
「コレハ」サン・リーが囁いた。
「コレハ ダレ ノホンデスカ?」と僕は続けた。
「いいですね。」と先生が言った。「次も続けて読んでください」
クラスのみんなが「えーー!」と言うのが聞こえた。
ソ……レ……ハ ア……ナタ……ノホン…………。
シャンプーを買って、それが後でベビーオイルだったと判るのは酷い出来事だ。でも少なくともそれは、個人的な恥ずかしい出来事で、クラスでの出来事は公の場における恥ずかしさだ。そして、その恥ずかしさは僕の周りの人々をも傷つけるのだった。
「デビッドさんをあてないで、デビットさんをあてないで」とクラスの皆が思っているのを僕は感じた。グループ練習の時間では、クラス中のみんなが、
えーー、そんなのフェアじゃないよー。僕はこの前デビットさんと組んだんだから…………。
と言いたげな表情を見せるのだった。 僕はこういった経験をフランス語学校でも味わった事がある。その頃のことを思い返すと、何と物事は簡単だったのだろうと思う。文字によっては発音が難しいが、少なくともアルファベットは英語と同じだからだ。僕はその頃今より若かったし、明らかに立ち直りが早かった。
昨日のクラスを終えた時、僕の唯一の目標はどこか独りきりになれる場所を見つける事だった。 僕はそこに座り長い時間をかけて泣くつもりだった。 不幸な事に、ここは東京だ。どこにも独りきりになれる場所などない。教会も、ちょっと人混みを避けて影になって隠れることのできるベンチもない。 新宿で地下鉄を降りてもどこにも行くあてがなかった。200万の人々が駅を行きかい、オフィスタワービルやデパートに散らばって行く。ぎゅうぎゅうに混んだ通りや地下街。 僕はこの地域をタイムズスクエアといつも比べていた。 そこから、1マイルぐらい歩きさらに人混みの区域に辿り着いた。こんな風に次々に隣り合わせの地域に移動しながら、僕は自身が本当に取るに足らない存在だと感じるようになった。 まるで、満天の星を眺めているような気分だ。 一つ一つの星に人が住んでいるだけでなく、その星は明らかに人口過密状態だった。
「君は無よりもさらに矮小な存在だ」
この時に僕は、泣くという行為をしなかったのが一番良かったのかもしれない。 多くの人が喫煙と飲酒はよい取り合わせだという。この2つを引き離すのは無理だ。 僕は涙についても同じことが言えると思う。いい涙を流してから、タバコを吸わない限り、タバコを吸っても何の役にも立たないのだ。
1月21日
時々、タバコを止めたことを忘れていた。地下鉄や店の中で、そうだ、タバコタバコ、これさえあれば……と思う。 そして、ポケットに手を伸ばしてみて、そこには何もないと分かりパニックになる。そして、自分がタバコを止めたことを思い出し、押しつぶされるような一撃をくらってしまう。それは、悲惨なニュースを耳にした時のような感覚なのだが、それほど大悲劇のニュースではなく。
例えば、 「赤ん坊の命は助からない」 というようなものでなく、
「赤ちゃんの髪の毛は全部生えるようにならないでしょう」 といったぐらいの悲惨なニュースなのだけど。こういった衝撃が一日に10回ぐらい僕を襲った。
忘れて、また思い出す。
1月23日
「タバコを止めたいなら、喫煙を開始する前の自分に戻らなければならない」
これは、誰かが数ヶ月前に言っていた事だが、僕は冗談だと思っていた。 この考えを好む、好まざるは関係なく。今は「なるほど」と納得している。僕は少なくとも学業面において、20歳の頃の自分に逆戻りしている。
昨日の朝、僕はひらがなのテストを受けた。 100点満点のうち、僕のとった点数は39点だった。 クラスで最下位の成績だが、それでも先生は僕のテストに奇抜な模様のシールに「がんばって!!」というメッセージが書いてあるものを貼ってくれていた。
「その点数、ホントひどいね」とクロードさんが言った。彼は100点満点をとっていた。 そして、それを自分で祝うためにタバコを吸いに部屋を出て行った。僕は彼の背中を見つめながら思った。
ふん、負け犬野郎が。
1月25日
僕の禁煙本によると、禁煙3週間目で気分の高揚を感じるらしい。
うわーい、とうとう自由になったぞー!!
となるらしい。昨日でちょうどその3週間目を向かえたが。気分の高揚どころか、非常に気弱になった。心の中では、「またタバコに手を出してしまうのでは」という可能性に大いに傾いてしまっていたのだ。
ただ一本だけ。俺の覚えているタバコの味がするかどうか試してみるだけ。
そして、地下のスーパーを思い、道の向かい側にあるコンビニエンスストアの事を考えた。クールマイルドを一箱買って、1本だけ吸って、残りは全部箱ごと捨ててしまおう。どんな味がするのか想像してみた。それは僕の喉の奥に薬効並みの強烈なパンチを与える。すると、本当に涎が出てきてしまった。この瞬間、僕はタバコを止めて初めての絶望感を味わった。
タバコを止めたからって、何?
残りの人生をずっとタバコを吸いたいと思いながら過ごすの?飲酒問題とも違うだろう。
でも、やっぱり僕には進むべき方向というものがあり、やらなければならない事も山ほどあった。飲酒を続けるとやはり、いろいろと障害になってくる。アルコールと違って、タバコは寸時に僕の人生に暗い影を投げかけるものではなかった。でも1本吸ったら、次は5本、20本と吸うようになり、自分自身が機能しなくなるだけでなく、吸わない限り上手く機能しなくなるものなのだ。喫煙行為とは、以前やった事があるが、最近は滅多にしなくなるような行為だ。それは木を切り倒したり、誰かを蘇生させたりするような行為かもしれない。
1本だけ、と僕は考えた。『ただ1本だけ』
こんなことを書くのは本当に恥ずかしいのだが、僕が弱気になった瞬間に僕を救ったのが、サンタバーバラのフォーシーズンズホテルの思い出だった。フォーシーズンズはスタンダードルームでも飛び切りお洒落だったが、プライベートコテージタイプの部屋はさらに素晴らしかった。随分前に滞在したのだが、その頃は喫煙も出来て、まるで自分の家に居るようだった。僕は、居心地の良さにすっかり惚れ込んでしまっていた。普通ホテルは、大体において簡素な部屋作りだ。ネジで留め付けたりしておかないと全て持ち帰られてしまうものだから、ホテルの部屋には、ベッド、机、それから味気ない抽象画が壁にボルトで留めつけられているだけだ。でもフォーシーズンズのコテージは、落ち着いた金持ちが住んでいる小さな家のような感じで、カシミアの膝かけ、アート&クラフトのボウルが置いてあった。と言ってもそれらは全く僕の趣味ではない、それでも誰が文句を言うだろう?僕のコテージには暖炉があった。僕の記憶が正しければ、暖炉の傍にはアイアン製の火かき棒とトングがラックにぶら下げてあった。こんな事を考えるなんて、本当にホモっぽく女々しいのだが。
サンタバーバラのフォーシーズンズの暖炉の火かき棒とトング
これを1、2分の間頭に思い浮かべてみたら、もう大丈夫だった。タバコへの渇望は消えていた。これは僕の禁煙本に書かれていた事そのものだった。
ただ辛抱して、踏みとどまる。
1月 26日
僕達のご近所を把握するのは難しい。オフィスタワーの間には、たくさんのアパート風建物が建っている。こんな所に誰が住んでいるのだろう?さっぱり見当がつかない。この辺の人々は裕福なのか?みんな中流階級なのか?
女の人がズタズタのスカートにパンツを合わせて履いて歩いているけど、なんだかコム・デ・ギャルソンの服に見える。多分去年のシーズンのデザインか?それでも格好良くて、高価そうに見える。
運河沿いには、2、3階建の家がたくさん建っている。アメリカなら、窓から家の中が見えるのだが、ここでは家のカーテンが開いていることはまずない。公園に面している家でさえ、窓がはっきりどこにあるのか判らないようになっていて、窓があったとしても、外から中が見えないように細工がされている。これは、 郊外の家でも同じで、20軒ぐらいの家が並ぶ集落で、一つも家の中を見通すことが出来なかった。
本を読んでいる人にも同様の事が言える。みんなブックカバーで隠しているから、一体どんな本を読んでいるのか判らない。例えば、外出先で誰かに対して好奇心を持った場合、その人の後について行けばいい。すると数分以内にその人の携帯電話が鳴り、その人について知りたい事以上の事が判ってしまう。ここでは、 もちろん言葉の壁というものがあるが、例え流暢に日本語を話せたとしても、ここで他人の事を知る術はないだろう。
過去3週間の間、僕はバスや地下鉄の乗客で1人も携帯電話で話しているのを見かけた事はない。道では時々見かける事があるが、それでも人々は小さな声で囁く様に話し、空いている方の手で口元を隠す。僕はそんな人々の姿を見ては不思議に思った。
一体何を隠しているのだろう。
1月27日
日本人にとっては何でもない事かもしれないが、日本を訪れている者として、時に人々がとても親切な事とその気の置けなさに圧倒されることがある。例えば、 アパート近くの花屋の店員。モノレールへの道を訊いたら丁寧に教えてくれたので、僕はハローキティのブーケを買うことに決めた。つまりそれは、カーネーションに尖がった耳を付けたもので。プラスティック製の黒い玉を二つ目につけて、白い玉を鼻につければ20ドルの猫の出来上がり。
「カワイイ」と僕は言った。店員は僕に同意した。僕はさらに強調して、「トテモカワイイネ」と言ってみた。
「日本語がお上手ですね」と店員は言った。
褒められた事に酔いしれて、いいお天気です等と天候についても話してみた。店員も本当にそうだと言った。お金を払って、そのまま店の出口に向かった。日本以外では僕はお店やレストランを出る時には「グッドバイ」と言うようにしているが、ここ日本では違う。僕は日本語CDで習ったフレーズを使う。
「イッテマイリマス(now, I am leavingの意味)」と僕が告げたら、周りにいた人達が笑った。
これは、多分僕が余りにも明らか過ぎる事を告げたからだろう。
1月30日
昨日の午前授業の休み時間中に、先生が廊下で僕に近づいてきた。「デビッドさん」と先生は言って。
「宿題なんですけど、ちょっと……」
この「ちょっと」というのは、「少し」という意味で、相手の気持ちを傷つけたくない場合に使う。
「ちょっと、というのは何でしょう?」と僕は聞いてみた。
「ちょっと悪い?」
「いいえ」
「ちょっといい加減?」「ちょっと怠けている?」
先生は両手を合わせて、暫くその手を眺めた後に、
「たぶん、えーっと、多分ちゃんと解っていないと思います」と言った。
僕は以前よくこの日本語の曖昧さを笑っていた。でも今は、そこに本当の技を見出した。ただそれを使うだけではなく、それを通訳していくことに対しても。 11時になって、先生が交代した。ミキ先生は、本と視覚補助用資料を持って教室に入って来た。そして、人にものを尋ねる時の説明をした。例えば、お金を借りたい時など。相手がいくらか持っているか尋ねる。時間を尋ねたい時には、相手に時計を持っているか訊く。
僕は手を挙げて質問した。「どうしてただ時間を訊くだけじゃだめなんですか?」
「直接的過ぎるからです」とミキ先生は答えた。
「でも時間はタダなんだし」
「ええ、そうかもしれませんが、日本ではあまりいい訊き方ではありません」
学校の後に、アキラと一緒にコージーコーナーへ行った。アキラはカリフォルニアに以前長く暮らしたことがあり、今は本の翻訳業をしている。僕たちはショトケキを注文して食べた。食べながら、アキラが日本語の曖昧さについて話し出した。英語と全く反対で、日本語は聞く側の言葉だそうだ。
「実際話さない事の方に、話す事より重要な意味がある」
僕は、アキラに相手が着ているシャツを褒める場合はどうしたらいいか尋ねた。
「僕は、『君の着ているシャツ、好きだよ』と言った方がいい?それとも『そのシャツ気に入ったよ』と言うべき?」
「そのどっちも言わないね」とアキラ。「その対象について話すことに時間をかけるより、ただ『いいね、それ』というだけで、相手に何の事を話しているか理解させるんだ」
僕の先生も同じ事を言っている。僕が言った文章を、先生はすぐに余分な部分をカットしてしまう。
「『わたしは』でいつも始める必要はありません。『わたし』が話しているのが明らかなので、『わたし』という必要はないのです」
次の日本語教室のセッションは2月8日に開始する。僕は次のクラスに申し込みをするのを止めた。これを事前に告げた方が良いか。それともこれを言うと、たくさん言葉が多すぎて直接的過ぎるか?多分、このままドアを出て、二度と戻らないのが一番だろう。2、3日の間、後ろめたい気分になると思う。でも時間が 経つとそれも通り超えるだろう。ここにはタバコを止めに来たのだから。そう考えてみた。それが僕の最優先事項だった筈。タバコを吸い始めない限り、これが成功と言えないまでも、完全に落第した事にはならない。
1月31日
タバコを吸わずに4週間。
自分の日本語力を明らかにしたところで、ここに僕が見かけた英語を批判するのはアンフェアか。
美容院の外にある看板に “Eye Rash Tint”とあった。これだと「目の吹き出物染め」になってしまう。正しいスペルは “Eyelash Tint (まつげ染め)”。笑う代わりに、少なくとも近くまで書けていた事を褒めてあげた。
僕が気になるのは、間違いの大量発生だ。例えば、ローソンの商品。ローソンは全国展開しているコンビニエンスストアで、そこで売られているオリジナル商品のサンドイッチの包装フィルムに書かれているのが、
We have sandwiches which you can enjoy different tastes. So you can find your favorite one from our sandwiches. We hope you can choose the best one for yourself.(あなたが楽しめる様々な味のサンドイッチを用意しています。当店のサンドイッチからお好きなサンドイッチを見つけることが出来ますよ。あなたの一番のサンドイッチが見つかるといいですね。)
これは、全くの見当違いの文章とは言えないけれど。それでもこれを見たら、たぶんローソンの経営陣の誰かが、
「僕の甥っ子がアメリカに住んでいましてね。皆さんどう思います?例えば僕がその甥にちょっと電話して、文章を作らせまして、それをザーッと百万枚ぐらい印刷してしまうというのは?」
とか言って印刷してしまったのでは、と思ってしまう。でも、違うのだ。
ヒューの誕生日プレゼントに僕が三越デパートで買った手作りのティーカップ2客。箱の中に一緒に入っていたそのカップを造った女性陶芸家のプロフィール。この陶芸家は、長年に渡り、
“the warmth of Cray” (クレイの温かみ)に魅せられてきた。
と書かれていた。これを読んだ時、僕はCray(クレイさん)という別の陶芸家の事だと思った。愛すべきクレイさん。でもヒューがこれは、クレイさんではなく、”clay”(粘土)の事を言いたかったのだと発見。この一文の全部をここに写しておく。
With being enchanted by the warmth of Cray and the traditional of pottery over the period so far, she is playing active parts widely as a coordinator who not only produce and design hers own pottery firstly but suggest filling Human’s whole life with fun an joyful mind.(クレイの温かさと陶芸の伝統に魅せられ、コーディネーターとして広く積極的な分野で長年活躍されているところ、第一に彼女自身の作品を造り、そしてデザインするだけでなく、人間生活全体を楽しみや喜びの心で満たすことを提案しています)
2月5日
皇居の傍にある公園に鯉がたくさ んいる池がある。昨日ヒューと僕が公園の入り口に近づいた時に二人の若者が僕達に声を掛けてきた。
「イエス。ハロー。チョットいいですか?」
2人は地元の大学に通う学生で、僕達に観光案内をしたいと言うのだった。2人のうちの大柄な青年が、「お金が欲しいのではなくて、ただ自分達のエンガリッ シュを磨きたい為だ」と説明した。
「うーん、そうは思えないけど」とヒューが答えた。さっき喋った若い方の青年(名前はナオミチ)がもう一人に向かって「結構だって言ってるよ」と言った。
その時、僕が声を張り上げた。「構うもんか。きっと面白いよ。」
「それは、『では、お願いします』と言う事ですか?」とナオミチが訊いたので、僕はそうだと答えた。
ツアーガイドの最初の5分間、僕達は破壊された建造物について話した。「これが衛兵所の建物の枠組みだとしたら、衛兵たちが守っていた場所は何処になるんだい?」と僕が尋ねた。
「burned down(焼け落ちた)」学生No.2が答えた。
残った2、3か所の壁 以外は、全て焼け落ちてしまっているように見えた。「どうして石で建物を造ろうとしなかったの?」とまるで、3匹の子ブタの1人に叱りつけるように僕が尋ねた。「炎が問題だとして、実際それが明らかに問題と解っているのに、どうして耐火性の建物を建てようと考えなかったのだろう?」
「それは、僕らのやり方ではなかった」とナオミチが言った。
「その頃、僕らはそういった技術を持ち合わせていなかった」ともう一人が付け加えた。
ここで僕達は公園について興味を失くしてしまい、学生達に彼らの生活について質問を始めた。「大学での専攻は?」「両親と一緒に暮らしているの?」「どれぐらい長く英語を勉強しているの?」
ヒューとナオミチが大相撲の人気低迷について話している間、学生No.2と僕は自然の尊厳について話し合った。
「東京にいるワイルドアニマル(野性動物)は?」と僕は尋ねた。
「ワイルドアニマル?」
「リスはいる?」
返事はなかった。僕はほっぺにクルミをたっぷり詰めた真似をした。すると若い方の学生が「あ、スカウォラ!!」と叫んだ。
僕は、蛇の話に持って行った。若い方の学生に蛇が怖いか訊いてみた。
「いいえ、ぼくは蛇を可愛いと思う」
絶対に、僕は思った。僕の質問を彼は解っていない。「スネーク、蛇だよ」と僕は繰り返した。そし て、僕は自分の腕をコブラの形にしてみた。「恐ろしい。危険な。ヘビ」
「いいえ」と彼は言った。「僕が唯一恐ろしいのは、モウサです」
「蛇の口(マウス)かい?」
「ちがう、『モウサ』たぶん正しく発音してないかも。でも『モウサ』モ・ウ・サ」
僕は解った振りをしようとした瞬間、この青年は電子辞書を引っ張り出して「ga」とタイプした。奇妙なことに、この単語を英語に翻訳すると「moth 蛾」と表示された。「君は蛾が怖いのかい?」彼は頷き、少しのけ反った。
「でも、蛾が怖い人なんているのかい?」
「僕がそうです」と彼は言って、僕達の後ろを振り返った。まるで何者かが僕達の会話を聞いているかもしれないと恐れているようだった。
「じゃあ、君はbutterflyも怖いの?」と僕は訊いた。若者は首を傾げた。
「蝶だよ。カラフルで蛾の従兄みたいなやつ。君は蝶々に襲われることも怖いの?」
ヒューがこれを聞いて振りかえった。「一体、二人で何の話をしているんだい?」すると、学生No.2が答えた。
「The wilderness*ザ・ワイルダネス」
(*注釈:the wildernessは「荒野」という意味。古語表現、聖書などで使われる。a wildernessで「果てしない広がり、雑然とした集まり」の意味を持つ。 「野性」についてと答えるなら、the wildnessが正しい)
2月6日
ここに来る前のことを考えた。毎日午後はiPodとインデックスカードを持って長い散歩に出かけた。パリではそうしていたから、結果的に何かフレーズを使うと、どこでそれを覚えたかを思い出した。
例えば、昨日の朝スーパーさんに偶然であった僕は彼に何人子どもがいるのか訊いてみた。
その時にダウメスニル大通りがヴィアデュ・デ・ザールに続くところを思い出した。
その日はレッスン13をやっていて、ひどく雨が降っていた。晩秋で、黄褐色のポットホルダーぐらいの大きさの落ち葉が道端に固まっていた。その様子は落ち葉がまるでそこに糊付けされて、ニスで固めたようだった。
その午後は2時間ぐらい歩いた。僕は一旦覚えたフレーズを忘れることは無かった、というか少なくとも今のところ頭に残っている。僕がタバコを吸っていたことが良かったのかもと思う。その頃、12月には僕は何も考えずに、タバコに火をつけることが出来た。今は、火をつけないし、何を無くしたか思い切り考え込んでいるし、他に何も考える余裕がない。
ここでの問題は、散歩がしにくいことだ。少なくとも、ロンドンやパリで歩いているようには歩けない。銀座を例にとってみると、そこには高級ショップやデパートがある。こういった場所を好むことに対して、僕はうしろめたい気分になる。
銀座みたいな場所は、英語で書かれたメニューなどを持って来てくれるようなところで。道端のスタンドでブラックアイスクリームやコーンに載せたピザなどが英語のスペルで書かれている。日曜日の午後には大通りは歩行者天国になり、美しく装った人々がお洒落を見せびらかすように練り歩いている。
銀座は僕のアパートからは1マイルぐらいのところにある。でも銀座に辿り着くためには、僕は無数の道路を越えなければならないし、歩道橋を何度も渡らなければならない。
それから、高速道路と電車の高架下、そして工事現場の傍も通らなければならない。これは、近所に限らず、僕がどこに行っても出くわすものだ。
建物のアレンジもめちゃくちゃで混乱する。高層ビルの間に鏡張りのキューブがあったり、一階建ての家が分厚い鉄板で修繕されていたりする。
子どもの頃、家の地下で一匹の蟻が狂ったように走り回っているのをみた。僕はドアを開けて蟻を外に出してやろうと思った。でも考え直して、その蟻を捕まえるとTVの裏の通気孔の中に落としてやった。その時に蟻が眺めた風景と僕が今見ているものはとても似ていると思う。混沌とした未来のビジョン、驚嘆の連続、しかし興味深いことに魅力には欠けている。湖もない、公園広場もない、樹木が生い茂った通りもなく、ただ道が永遠に続くだけの風景。
2月7日
銀座のデパートで水着の試着をした時に失敗をしてしまった。全部洋服も靴も履いたままカーペット敷きの試着ルームに入ってしまったからだ。
それを女性店員が見つけて、日本に到着した時以来聞いたことがなかった甲高い声で叫んだ。
「止まって、待って!靴!」
靴を脱がなければならないと考えもつかなかった。でもやっぱりそうせざるを得なかった。
先週入った小さな店では、ディスプレイケースを見る為にスリッパに履き替えなければならなかったし。それから靴を履きなおして、2階に上がるのにまた靴を脱がなければならなかった。2階は靴下履きでしか上がれないようだった。
そして、最近訪れたのが朝倉彫塑館で、そこは有名彫刻家である故朝倉氏の自宅兼アトリエだった。
入館時にスリッパに履き替える、それから中庭に入るときには、専用のスリッパに履き替えなければならない。2階に上がるには、スリッパを全部脱ぎ、3階ではまた履かなければならない。それから屋上庭園ではまた別のスリッパに履き替える。
朝倉氏の彫刻が家中に展示されていたし、結構な数の作品群であったが、生前こんなに何度も馬鹿みたいに靴を履き替えなくて済めば、彼はこの2倍の数の作品を残せたのではないかな。
2月8日
昨日は語学学校最後の日だった。そしてまた僕はここでクラスを離脱することを考えなおした。
最初の先生は、アユバ先生で、僕の好きな先生だ。先生と一緒に同じことを繰り返すレッスンだった。これは良かった。話すことは、僕が唯一上手にできることだ。それに、先生は折にふれて僕を褒めてくれた。小さな声で「イイデス」と言ってくれる。これはGoodという意味だ。
授業の終わりに、先生は頬に指を持っていき涙が流れる真似をした。僕は大きな間違いを犯しているのではと考え始めた。しかし、休み時間の後の2時間の授業はミキ先生だった。
彼女は愛らしい女性だが、僕は一瞬で死んだ。彼女はクラスのみんなに線引きされた紙を配って、「わたしのにほんのせいかつ」というタイトルでエッセイを書くようにと言った。
僕が書き終えたものは、いたってシンプルなものだ。カンニングもせずに、全てひらがなで書いた。
わたしのにほんのせいかつはたのしいです。しかしとてもいそがしい。わたしのいえはせがたかいです。28かいです。そして、いつもえれべーたにのっています。ときどき、わたしはえいがにともだちのひゅーさんといきます。わたしはまいにちしゅくだいをします。でもいつもてすとはわるいです。わたしはいんぐらんどにいきます。そしてえいごをはなします。たぶんあとでにほんごをべんきょうします。
2月9日
学校が終わったのをお祝いするために、ヒューと僕はディナーに出かけた。僕は美味しい日本料理を注文した。
8種類のコースで、どれもコーヒー茶碗のソーサーさえ一杯にならない位の盛り付けだった。
2番目に出てきたのは、はつか大根を花のように切ったもの、少しの魚、小石ほどのじゃが芋が深い木製の箱に入って出てきた。それには、墨で書かれた札がついていた。見栄えは美しい、それぞれお皿は違うサイズで、それぞれ違った形をしていた。器の素材も違っていた。お料理も美味しかった。ただ量が充分でなかった。
僕たちはカウンターで食べていた。同じカウンターで僕の近くに男性が座っていた。彼はワインのボトルを飲み終えたところだった。
「タバコ1本火をつけてよろしいですか?」とその男性が訊いてきた。僕はどうぞといった。
「どうせなら3本吸って、煙をこっちに向かって吹いてもらえますか?」
彼は僕が厭味で言ったと思っていると思う。しかし僕は真っ正直に答えたつもりだ。僕が昔喫煙していた頃は、他の人がタバコを吸っている臭いが不快だった。
今は、なんでか、 その臭いが大好きだった。食事中は特に。
2月12日
昨日の午前中遅く、ヒューと僕は新しい水着を持って近くの区の施設に向かった。そのビルの7階にオリンピックサイズのプールがあるからだ。
ライフガードの後ろの天井まであるガラス窓の向こうに僕のアパートが見えるところが気に入った。更衣室と利用客が静かなところも気に入った。一つだけまったく気にもとめてなかったのは、実際に泳ぐことだった。
いつもゴーグルと水泳帽をお風呂場に干しているヒューと違って、僕は一往復泳ぐことを30年以上もやったことがなかった。自転車に乗ることはできる。でも水中で3回ストロークしただけで、心臓が破裂しそうになった。しばらくかかって、やっとコースの向こう側まで辿りついた。
それからまた折り返し、折り返し同じ距離を、精一杯ヒューヒュー息を吐きながら頑張った。瀕死の唸り声をあげながら、プールサイドの端をつかんで眼を閉じた。きっと僕は半分死にかけの猿みたいになっていることを想像しながら。
プールの中にいる人の中で、僕だけに胸毛が生えていた。これだけでも最悪なのに、わたしは背中も毛むくじゃらだった。人々が僕にうんざりしているのを実感できるほどだった。
2月14日
僕は6週間前にタバコを止めたばかり。でもすでに肌の調子が違う。前は灰色だったのに、今は灰色に少しピンクがかってきている。
それに、身体を動かすのが楽になった。階段を上がったり、バスを追いかけたりするのが物凄く簡単になった。
よく聞くのが、タバコを友達に例える話。 タバコはお金を貸してくれないが、ある意味、傍に居てくれる。
この何も言わない小さなヤツはいつでも気分を盛り上げてくれる。
今、僕にとってマカデミアナッツが友達みたいなものだ。それとこの奇妙なちっちゃいクラッカー。最近よく買っているのだが、原料がなにかわからない。でもほんのりペニスみたいな味がする。
2月15日
公的に認められた事実。ペルー人バンドを地球上どこでも見つけることができる。
昨晩、田町駅を出る時に聞き覚えのあるサイモン&ガーファンクルの「コンドルは飛んでいく」が聞こえてきた。エスカレーターを上ってみると、そこに居たの が、5人のポンチョを着た人たち。パンの笛をコードレスマイクに向かって吹いている。「俺は君らをダブリンでみなかったかい?」と訊ねたくなった。「いや、ちがう。確か香港だったか、オックスフォード、ミラノ、ブダペスト、トロント、スゥーフォールズ、サウスダコタだ」
2月16日
昨日公園から帰る途中、散髪しようと思った。僕が店に入った時、理容師は座ってテレビを観ていた。彼は僕を手招きして、空いている3つの席の一つに僕のカバンを置くようにいった。それからジェスチャーで座るように言った。それから僕にケープを被せたとき、僕はこの人の手にウンコがついているのに気づいた。トイレットペーパーか何か、どちらにしろ、たぶん手の平についていると思われる。この臭いは絶対に間違いない。彼がハサミを持ち上げるたびに僕はのけぞった。どこからそれが匂ってくるのか、ハッキリ判れば気持ちを落ち着けることが出来るが、理容師は忙しく動き回り、いつも何かを手に持っている。だからしっかり確かめるのは困難だった。わたしはこの主人と会話を交わすことに気をとられた。会話には集中力が必要になるからだ。
手の平にウンコがあるなしにかかわらず、この理容師は大層フレンドリーだった。それに腕も良かった。彼はこの道で受賞経験があるらしい。これは、この主人が写真を見せてくれたから判ったことで、その写真では50年前の若い姿の主人がメダルを授与されていた。
「ナンバーワン、チャンピオン」といいながら人差し指を上に向けた。僕は体を前に曲げて覗き込んだ。
「ナンバーツーじゃなくて?」
主人は、僕が数えると英語は8語ぐらいしか知らなかった。だからその後はずっと日本語だけで話すようになった。
「ゆうべ、ディナーに豚肉を食べました」と僕は言ってから、
「あなたは何でした?」と訊いた。
「ヤキトリ」と彼は答えた。僕はそのヤキトリの一部を思った。その消化されたバージョンが彼の元に化けて出ているんじゃないか訊いてみようかと思った。
「ミミ」と言って、僕は自分の耳を指差した。
「とても上手ですね」と彼は自分の耳を指差したて言った、「みみ!」
それから僕は自分の鼻の先を触って、「ハナ」と言った。
「その通り、ハナ」そういって、理容師は自分の鼻を触った。
次に、僕は手を上げて、指を広げて仰ぐようにした。それからゆっくりと反対側を返して見せた。まるでショッピングチャンネルでジュエリーを見せるように、「テ」と言った。
「すごいね」と理容師は言ったが、自分の手を見せる代わりに、ちょっと腕を上げただけだった。
僕はこんな 具合に20分ぐらい話した。それから主人が僕の髪の毛を切り終わった時に、蒸しタオルで僕の頭を覆った。それから僕の両耳をパンチし始めた。上半身を前後に揺さぶられながら、「パンチ」と呼ぶには強すぎるかなと思っていたが、それでもそう呼んでもいいぐらいに強いものだった。僕の頭蓋骨や彼の拳が壊れる程ではなかったけど、彼は一度も手加減をしなかった。本当に痛かった。
「ヘイ!」 と僕は言ったが、主人はただ笑うだけで、僕の右耳の上を思い切り殴打した。ラッキーなことに、タオルが被せてあったから良かったが、その痛みに加えて僕の頭の中は手の平のウンコで一杯だった。散髪したての髪に主人がウンコをふりかけているのかという考えが頭から離れず。もちろん僕は洗髪したわけだが、本当にその日は2回洗った。ヒューも数週間前に散髪したから、その理容師にパンチされたかと訊いてみた。
「あ、やられたよ」と言っていた。だから少なくともパンチに関しては通常のことなのだと思う。
2月19日
エイミーの 友達のヘレンアンによると、喫煙癖を打ち破るには30日かかり、依存症から抜け出すには45日かかるらしい。タバコを止めてから45日目に僕は京都にいたが、お寺から出て男性グループが灰皿の周りに集まっているところを通り過ぎるまで、喫煙について思い出すこともなかった。このとき午後4時、ちょうど雨間の出来事だった。
これは週末のパッケージ旅行で、電車代、シャビーなホテルでの2泊分が含まれていた。これは一般的なのかもしれないが、宿のベルボーイがみんな女性だった。 それも体重は40キロもいかないぐらいの人たちばかりなので、僕は彼女たちに自分のスーツケースを渡すことを非常に奇妙に感じた。それからチップを渡さないことも変だった。でも玲子によると、日本ではチップの習慣が全くないそうだ。
ホテルはそんなに忙しそうでなかった。洋食の朝食が1階で用意されていた。地味な部屋をけばけばしく飾りたてているような感じの宴会室だった。日本人の女性がお箸でクロワッサンを食べているのをみたのがその場所だ。食べ物はセルフサービスだった。僕は誰がここのメニュー決めをしたのかと不思議に思った。トースト、シリアル、フルーツ同様、卵とソーセージは理解できるが、誰が朝食にグリーンサラダを食べるんだ?マッシュルームスープ、コーンチャウダーや茹でたブロッコリーもだ。2日目の朝は、前日と同じぐらい哀しさを漂わす部屋での食事だったが、そこでは日本食が出てきた。着物姿の女性が給仕していた。ここもまるで悪夢のようだった。ぞっとしながら、母親が息子を叱る姿を想像した。
「だめよ、やめなさい」と母親は言うだろう。
「これは、今日一番大切なお食事なのよ。このピクルス(香の物)を食べ終わるまでどこにも行きませんからね。そうよ、その海藻(ワカメ)もね。それからそのスープに浸かったポーチドエッグ(温泉卵)も食べてね。それから、そのやぶにらみしている魚もね」
2月22日
今 朝ベッドに横たわっていた時、パリを離れてからローラーブレードに乗っている人を1人も見かけていないことに気付いた。それにキックボードに乗っている人もだ。キックボードは世界的に5分間ぐらいの流行をもたらしたが、フランスでは未だ物凄く人気の乗り物である。ここ東京での問題は自転車だ。人々は道路では乗らないで歩行者道路で乗りまわしている。
日本以外の場所では、自転車に乗る人々は「そこどけ!じゃまなんだよ」という権利丸出しで走って行くが、東京のサイクリストたちは、ゆっくりと音も無く、人の後ろに忍び寄ることで満足を得ているようだ。
「こちらは気になさらず」というのが一般的な態度。
地下鉄の外に何百台という自転車が駐輪されているのも気がついた。ほぼ全てにロックがかかっていないようだ。これを見て僕は、日本の人たちは車をロックするのか、それにアパートのドアに鍵をかけるのか疑問に思った。
2月27日
汚れひとつ見当たらない田町駅のトイレにて、それぞれの小便器の横に傘かけが設置されているのに気付いた。これも真心のこもったサービスで、また利用しよういう気になる。
3月3日
僕のアパートのロビーに4つのレザー製ソファとコーヒーテーブルが置いてある。時々、人がそこに座っているが極たまにしか見かけない。「これがあるからじゃないの?」とヒューが昨日言った。彼が指差したのは、日本語で書かれたサインだった。「禁煙」というのは一目瞭然だった。タバコの絵に×マークがつい ていた。それから、「ミルクをパックからそのまま飲んではいけない」、「ハートのキャンディを食べてはいけない」、「恋に落ちてはいけない」というのが続 いた。
3月4日
僕は自分自身を慎重なスモーカーだと思っていたが、昨日の夜、ビルの火災のニュースを見ながら昔ホテルでボヤ騒ぎを起こしたことを思い出した。何が起きたかといえば、灰皿を片付けるのが早すぎたのだ。吸殻の一つがまだ燻っていたにも関わらず、ゴミ箱の中に放り込んだために、その中にあった紙の塊に火がついた。そのまま炎が上がり、机の端まで焦がした。僕が早くに気がつかなければ、カーテンまで燃え移ってしまったと思う。
それと、ノルマンディで散歩をしていた時も、吸っていたタバコの灰から僕のジャケットの袖に火がついた。一瞬手首が熱くなったのを感じて、次の瞬間にはオズの魔法使いの案山子のようになっているのに気がついた。炎が僕の袖から飛び散り、僕はその袖を叩きながら飛び跳ね、助けを叫んだ。
興奮した為に、半分まで吸っていたタバコを落とし、タバコは道の端まで転がっていった。炎が収まった後は、半分ぐらいまで落ち着きを取り戻した。そして、タバコを拾い上げて埃を払ってから、生きていて良かったと思ってまた口に咥えた。
3月6日
昨日は横浜まで電車で出かけた。品川駅で、子供連れの夫婦が乗ってきた。子どもは1歳半ぐらいだ。最初は母親の膝の上に座っていたが、数分経つとぐずり出し窓から外を眺めたいと言っているように見えた。父親が何か言ったが、それは「2日前にも窓は眺めただろう」というようなトーンだった。溜息をついた父親はしゃがんで息子の靴を脱がせた。母緒はその間にカバンをごそごそとやって、小さなタオルを出した。それを椅子の上に広げて敷いた。その上に靴下を履いた息子が立ち、窓の向こうに通り過ぎる風景を見ながら、ガラスを手の平で叩いていた。
「ばあ」と彼は言う。
僕は、これは言葉なのか、それともただ音を発しているだけなのかと思った
「ばあ、ばあ」
僕らは10分そこらの間、快適に乗車していた。暫くすると、彼らの目的の駅に着く前に、父親が息子に靴を履かせた。妻がタオルをカバンにしまい、ウェットティッシュを取り出して窓ガラスの息子の手の跡を綺麗にふきとった。電車の椅子に普通に足をのせるフランスや窓ガラスを叩くだけでなく自分のイニシャルを彫りこむようなアメリカから来た僕からしたら、この家族の思いやりのある行動は奇怪なほどであった。それ以来「ばあ」とは、日本語で「気をつけてよく見てください、僕たちのやるように行動しなさい」という意味だと考えるようになった。
3月7日
4時間におよぶ「義経千本桜」を鑑賞。僕は今まで歌舞伎を知らないでどうやって生きてきたのだろう。
小さなラジオ型の音声ガイドを借りたことが大いに役立った。
ヒューと僕は英語で、アキラは日本語ガイドだ。
劇は日本語だが、話し方は様式化されているため理解するのは難しい。
英語だと、マーガレット・ハミルトンがオズの魔法使いで西の魔女を演じるようなもので、「身体が溶けていくー」とゆっくりと間をおきながら叫ぶのと同じようなスタイルだと思う。
もし音声ガイドがなかったら、セットや派手な役者の衣装を楽しむのに集中できたと思う。
女形のほとんどがそんなに魅力的ではないが、たまに物凄く美しいのが出てくる。しかし、僕は歌舞伎が男性役者だけで演じられるものだと知らなかった。これは決まりごとで、明らかに女人禁制なのだ。まさにシャイクスピアの時代のよう。
義経千本桜はシンプルであり複雑でもある物語だ。シンプルな点は、世に変わらず、人々は執念深く、隠し立てをし、同時に勇敢な面も持ち合わせている。
それ以外の筋書きでは、みな本当に誰にでもよくあるような誤解から生じている。中身は黄金小判がぎっしり詰まった寿司桶だと思っていたものが、実は小金吾の首が入っている。忠実な重臣だと思っていたのが、実は思ったように姿を変えることのできる孤児の狐だったりする。
この狐の放った台詞がこの夕べの僕の一番大好きな科白で、歌舞伎の魅力と驚嘆に満ちた世界を5つの単語(英語)で完璧に伝えている。
That drum is my parents. (その鼓こそわが両親)
昨夜の芝居では沢山の涙を誘うシーンがあった。歯軋りする場面、死の場面も沢山あった。
音声ガイドでは芝居の脚色上、終盤はドラマティックにならなければならないらしく、そのため、第6幕近くに横川覚範(よこがわのかくはん)が、実は平教経 (のりつね)だと素性を明かし。義経と戦場で相まみえると誓う場面では、覚範が階段を二段上がり、観客を振り返って、目を寄り眼にする。
拳を握り締め、口をきっと結ぶその姿は、毛むくじゃらの英国王の護衛兵といえば、一番巧く言い表せていると思うのだが。笑えると同時に感動する気持ちを抑えられなかった。そういったところが、素晴らしい演劇のエッセンスなのだと思う。
3月9日
高速列車「新幹線」で広島に向かった。ちゃんと訓練していない眼で見ると、フランスの街並みと同様、どこも同じように似通って見えるのではないかと思った。
たぶんドイツもアメリカも同じだと思う。日本人にとっては、神戸と大阪はサンタフェとシカゴぐらい異なる土地柄に見えるのかもしれないが、僕は知る由がなかった。
見える風景はどこもコンクリートで、灰色か見ていると頭痛がしそうに剥げて白くなっている街並み。時々、樹を見かけるが、一本だけで、本当にたまにしか沢山まとまって生えている風景というものがない。
新幹線は速いので、風景をじっくり見ていられない。ビューっと通り過ぎ、町が見えたかと思ったら、既に遥か後ろに過ぎ去り、それに気付くまでもなく次の町が現れるといった感じ。
新幹線の外の世界が高速で殺風景なのと対照的だったのは車内の様子だ。
制服を着た女の子がスナックのカートを押して通路を通り、その後に派手で短い制服を着た女の子二人がゴミを集めて歩く。誰も携帯電話で喋っておらず、iPodから音が漏れて聞こえてくるということもない。しくしく泣いている人も全く見かけない。
最初に車内に乗り込んだ時、僕たちは50代中盤ぐらいの男性の前に座った。彼はマスクをしていたので、顔の半分はどんなだか判らなかったが、そのマスクは 風邪を引いた人がつけるもののようだ。彼の髪はオイルをつけて丁寧に梳かしてあった。黒いスーツに黒い靴、そして明るい黄色の靴下を履いていた。それは コットンというよりウール製のように見えた。
そんなに気にするようなことではないのだけれど、その靴下に僕は目が釘付けになってしまった。
ヒューを呼んで訊いてみた。 「僕が黄色いソックス履いたら似合うと思う?」
彼は暫く考えてから、「いや、似合わない」と言った。
全身タイツが似合うかと訊いたとしても、疑いなく同じように答えたと思う。
3月10日
日本の街並みはどこも似ていると書いたが、広島は明らかに違う。緑がいっぱいで、開放感がある。
駅でタクシーに乗ってドライバーに行き先を言った後、僕たちはパリからやって来たヨーロッパ人だと伝えた。
「あっ」とドライバー。
「遠いですねえ」
「ええ、遠いです」
ホテルまで10分ぐらいで着いた。ヒューと僕はほとんどフランス語で話をした。広島滞在中に本当にそうやっていた。
特に原爆博物館においては。
あそこは拷問のようだった。
もうこれ以上悲しい展示はないだろうと思っても、別の展示がある。目を引いたのは展示につけられていた説明に「残された12歳の少年の爪と皮膚」と書かれていたものだ。
この少年は爆風で焼かれ、その後喉の渇きを潤すために自分の爛れた指の皮膚の膿汁をすすったらしい。少年は亡くなり、母親が爪と皮膚を夫に見せる為にとっておいた。その夫も爆撃が起きた朝に出かけたきり戻ることはなかったらしい。
博物館はこのような物語でいっぱいだった。解説は全て「しかし、彼は亡くなりました。しかしこの女性は亡くなりました」で終わる。
それでもまだ救われていると思えたのは、ジオラマを通り過ぎた後の展示を見たからだ。等身大のフィギュアが3Dになっていて、広島市民がボロボロになっている様子を展示している。そのほとんどが子ども達で、瓦礫の中をよろよろと歩いている。
背景には余燼でくすぶった空がひろがり、皮膚が焼け爛れて腕や顔からぶら下がっている。どうやって立っていられるのかも解らないぐらいなのに。ましてや、歩くことなんて。
14万人の人々が広島で殺された。その後にさらに多くの人が酷い病気で亡くなっている。
放射能の後遺症についての展示も沢山あった。その中に5センチぐらいの黒い棒があった。クルクルとカールして、直径は鉛筆ぐらいのものが台座に載っていた。若い男性が窓の外に腕を出していた時に爆弾が落ち、暫くしたら、その黒い棒状のものが指先から生えてきたものらしい。
それは爪を剥ぎ取ってしまうものだった。酷いことに、その黒い棒の中に血管が通っていたため、折れると痛み血が止まらなくなったらしい。最終的にはその棒を新しいものに取り替える必要があった。解説は1パラグラフだけの短いものだった。僕はたくさん問いたい疑問があったが、全てに回答は得られなかった。
僕たちが博物館を訪れた時は混雑していたので、みな囁き声で話していた。2人の西洋人が黒こげの遺体の写真の前に立っているのを見かけた。
彼らが言葉を失っているので、一体どこからやって来たのかわからなかった。
常設展示を見た後、太陽光のさす明るい廊下に出た、そこには絵やビデオモニターが展示してあった。それらの絵は爆撃から生き残った人々が残したものだった。
どれも前室で見た溶けた瓶や焼け焦げた服などの展示より強烈な印象を残すものだった。
「丸太のように積み上げられた中学生の遺体」というのがタイトルの一つにあった。
3月11日
ホテルの部屋にあった英語の小冊子に安全に関する注意書きがあった。ぎこちないタイトルで 「災難被害防止とお客様へのお願い」とあった。
このあとに三つのパラグラフが続く。それぞれ一行目に太字で「チェックインされた時」、「火を見つけたら」とあった。
僕が気に入ったのが3番目の「炎に飲み込まれた時には」だった。
これ以外で、旅行中に見つけた変な英語は、
・籠の中に寝ている犬の絵がついたエプロンに「君を今日捕まえてうれしいよ。楽しんで、ママ」 原文:I’m glad I caught you today. Enjoy mama
・ギフト用包装紙に 「僕なりの人生について考えるとき、優しい会話が欲しい」
原文:When I think about the life in my own way I need gentle conversations.
・ギフト用バッグに 「今日は貴方の特別な日。貴方が喜ぶプレゼントの一品を検討しました。さあ、来て開けてみて、OK?」
原文:Today is a special day for you. I have considered what article of present is nice to make you happy. Come to open now, OK?
・さらに別のギフトバッグに 「ただimflowingあなたはflowingしないimflowing 」
原文:Only imflowing you don’t flowing imflowing.
この最後の文章には本当に頭痛がおきてしまった。
3月12日
土曜日の夕食には、馬刺が砕いた氷の上に載って出てきた。馬肉を生で食べるのは初めてではなかったが。その時は初めて着物を着て食事を頂いた。僕が着たのは実際2枚の着物で、最初にスリップのような薄いものを身につけていた。給仕してくれたのは、小柄な女性だった。若くて、がたがたの歯並びだった。お座敷の部屋に僕たちを通すと、蒸しタオルを僕たちに渡した。それから僕とヒューの顔を見比べて、「こちらはお兄さんですか?」と訊いた。僕はレッスン8を思い 出して、「彼は僕の友達です」と答えた。
同じことをデパートでも訊かれた。「ご兄弟でご旅行に?」と店員。
西洋人がみんなアジア人は似通っていると思っていることと同じで、これほど馬鹿げている考えはない。国に帰ると、僕とヒューは義理の兄弟だと言っても絶対に信じてもらえないのに。
3月19日
昨日は寒かった。お昼の後、古い旅行ガイドを持って、ヒューと新宿駅に行って乗り換えをした。降り立った場所ではアンティークショップが沢山あるはずだったのに、アンティークといっても80年代の品物ばかりのようだった。ここかしこにフランスやイタリアから輸入したものが売られている。例えば、ガラスのピッチャーに「Campari 」とかいてある。
それでも、そこまで遠出した価値はあった。その辺りは3階建て以上の高さの建物は少ししかなかった。建築学的には面白くはないが、町のスケールは居心地がよく、親しみを覚える雰囲気だった。
暗くなるまでその町を彷徨った後に、帰ろうとして地下鉄の駅に向かった。その時にガレージのような場所を見つけた。ドアは開いたままで、カウンターに素朴なビーバーの絵が立てかけられていた。そのビーバーは四足でダムを造ったりするタイプのビーバーではなく、シャツとズボンを着た陽気な漫画のようなビーバーだった。
僕が一歩店の中に入ってその絵を眺めていると、男の人が現れて、電気製の棒を喉に当てていた。出てきた声は完全にフラットでトーンもボリュームも変化しない。ロボットみたいな。もっと別の表現だと、映画のエイリアンが囚われた時に放つ声のような。
最初はこの男の人が何を喋っているのか理解するのが困難だった。彼が日本語を話しているのか英語を話しているのかもわからなかった。でも彼が何か質問をしていると思ったので、気を悪くさせては悪いと思い、両方の言語で「イエス」と「はい」と答えた。
この男の人はたぶん70歳ぐらいだと思う。でも若々しい格好だった。野球帽をかぶって、襟のないレザーコートを着ていたために、喉がそのまま何にも遮られることがなく、寒い外気にむき出しになっていた。僕はもう一度、ビーバーの絵を指差して、この絵が気に入ったと話した。彼は僕にカタログを見せた。カバーに同じビーバーの漫画が描いてあったが、サイズは小さくて、さほど可愛くなかった。
この時は、「あ、わかりました」と僕は答えた。 この店が一体何の店なのか判らなかった。ひとつの壁はオープンで道に面していて、ほとんどの棚がガラクタで埋め尽くされている、古新聞、買い物バッグ、プラスチック製のトロフィーカップ。「僕の娘」と男の人が英語で言って、カップを1つとって高く持ち上げてゆすった。「娘は勝つ」 それから、髪を結わえた太った男の人が笑っている写真を見せてもらった。「アマチュア相撲のチャンピオン」と店主が教えてくれた。
それから、日本語で「彼は大きな男の子でね」と言った。 店主は頷いて、写真を棚に戻した。僕はこの店では何を売っているのかと訊いた。店主は「あ」と言って、「はい、僕の商売はね」と僕を道のほうに連れて行った。それから店の屋根を指差した。そこには手作りの看板があって「ガン撃退茶」と書いてあった。
「僕は癌なんですよ」と店主は言った。 「それで、お茶を飲んで治したんですか?」
店主は、「ああ、大体はねえ」というような表情をした。僕は、店主が何の癌なのか尋ねようとしたが、やっぱりやめておいた。僕の母親の具合が悪くなった時、人はみな詳細を聞きたがった。そうすることで母が気楽になると思っていたからだ。
「ほら、僕は知っても、驚かないでしょう」という感じに。でも母親が肺ガンだとわかったら、ムードは一変した。それは母が乳房や脳に腫瘍が見つかった場合のものと全く違っていた。
電気棒を使っているところから、僕は店主が喉頭がんだと思った。それから、癌の原因は喫煙によるものだろうと勝手に推測した。何がショックだったかというと。僕はこの氷のように寒いガレージに立ちながら、この店主に起きていることが、自分には起こらないという確信をした事であった。そんな風に僕の思考がなっていることが非常に奇妙な気がした。
2ヶ月の禁煙。そして全てのダメージが完全に変わると納得した。僕はホジキン病(癌の一種)や腎臓癌になるかもしれないが、喫煙に関するものには一切罹らない。僕が感じたのは、自分の肺が洗剤のコマーシャルにでてくるスウェットのように思えたからだ。使用前と使用後が根本的に異なる為、それが奇跡として認識された。
僕は自分が母親のように死ぬとは絶対に思っていなかったけれど、今は本当に、本当に、絶対そうはならないと思った。中年の僕がここ30年ぐらいの人生で、久しぶりに自分が無敵だと感じたのだった。
(Part threeへつづく)
(出典:「炎に呑み込まれた時には」デビッド・セダリス、テキスト翻訳:ちよろず)